「未来の途中」展のご自身の出品作品を振り返ってみて、どう思われますか?
前回の展示を振り返ると、作品を新しく展開させようとする中で生まれた未消化な部分がよく現れていた展示だったと思います。この時は以前より制作していたシリコンシリーズの作品と、日頃から撮り貯めているスナップ写真の作品の、2種類の作品を展示していました。このときはシリコンの作品も写真の作品もやりたいことが別々で、どちらも必要で展示をしていましたが、未消化な部分も強く感じていました。展示をすることは本当に面白いなといつも思うのですが、この未消化な展示をした後、消化が進み、「あれからの、未来の途中展」出品予定の作品へと繋がっています。
「未来の途中」展展示風景 左:《anoare♯10》、右:《anoare♯9》(撮影:林口哲也)
《anoare♯10》部分(撮影:林口哲也)
「あれからの、未来の途中」展には、どのような作品を出品されますか?
「あれからの、未来の途中展」に出品予定の作品は、基本は前回のシリコンの作品をベースに、シリコンの上に新たに写真のイメージを加えています。前回の展示では、シリコンの作品と写真の作品とで別々に考えていたことが、制作を進めていく中である時にするっと一つの作品に消化されたように思います。展示した時にどう見えて来るのか、今からとても楽しみです。
《赤 は 、の いち ご あ なた で ある。》2010年 部分・本
楠本さんは興味深い制作方法を採っていらっしゃいますよね。 まず、これまでどういう作品を、どういう方法で作ってこられたのか、教えてもらえますか?
私のこれまでの作品は、大きくふたつのシリーズに分かれます。
ひとつは、2010年のGALLERY ARTISLONGでの個展『赤 は 、の いち ご あ なた で ある。』に出品した、展覧会名と同じタイトルの作品シリーズ、
もうひとつは、京都市立芸術大学大学院入学後の2011年に手がけはじめた、シリコンをもちいた作品シリーズです。
作品《赤 は 、の いち ご あ なた で ある。》は、本を使って作ったテキストと平面作品によって構成されています。
最初に、どこかから拾ってきた文庫本を「彫る」ことで、テキストを作りました。
本のあるページを開いて、そのページに掲載されている文章に穴を開けると、その穴から下のページに掲載されている文章が見えて、不思議な文章が出来上がります。
作品タイトルの《赤 は 、の いち ご あ なた で ある。》という文章も、そうして生まれました。
次に、テキストをもとにイメージを作っていきます。
イメージは、私が描いたドローイングのように見えるかもしれませんが、しかし実際は、既存の写真などをコラージュしてあるかたちを作り、
それを手でトレースして描き、シルクスクリーンで転写したものです。
《赤 は 、の いち ご あ なた で ある。》2010年 部分・平面作品
どういった理由から、拾ってきた本を使ったり、不思議なテキストを作ったり、既存の写真をコラージュしたりされるのでしょうか?
私はもともと洋画学科で勉強をしていて、最初のうちは自分にしか描けないオリジナルな絵を描こうと思っていました。
でも、どれだけ絵を描いてみたところで、自分が描いている絵は、決まって何かの引用であるように感じました。
さらには、人は何かの物を見るときに、その何かをそのものとして見ることが出来るのかとも思えてきました。
例えば一本の棒を見たとき、そこから蛇を連想してしまうように、私たちは何かを見るとき、別の何かを連想してしまい、その物を直接に見ることが出来ないのではないかと思ったわけです。
もし仮に私たちが間接的なかたちでしか物に触れることが出来ないのなら、自分が描いている絵は全てが何かの引用となり、
どのようなモティーフを組み合わせようとも、すべてコラージュだということになってしまいます。
私が、さきほど言った方法を採った理由も、そうした問題と関わっています。
つまり楠本さんは、真にオリジナルだと言えるイメージを獲得するために本を削ったり、既存の写真をコラージュされたりしていたのでしょうか?
いえ、そうではありません。簡単に言えば、私は私自身の作品の中からオリジナルだと言える部分を見つけたいと思ったのです。
例えば、私はイメージを作る際に既存の写真を利用していたと言いましたが、もし引用という手法を使う場合であっても、何を引用するか、どのように引用するかは、私自身が決めています。
もちろん、それらの選択自体も私の自由意志に根ざしているとは、はっきりとは言えません。しかし、少なくとも私の感覚としては、自分自身が選択しているつもりです。
自分の作品を前にして、私がこの全てを創造したとか、作品の全てが自分のオリジナルだとか言うことは出来ないし、
それと同じように、私の作品に私自身の個性が一切入っていないと言うことも難しいように思います。
どこまでが自分の自由意志か、どこからが外の力によるものなのか。
どこまでがオリジナルで、どこからがコピーなのか。
そうした疑問を抱いていたから、私は先ほど言った方法を使って作品を制作しました。
本を拾ってくる、とか、本を「彫る」とか、イメージを選択するとかすると、自分の思いのままに作品を作るということが出来なくなり、
例えば紙に鉛筆を使って絵を描くときよりもしっかりと自分の意志を反映させようと努めなければなりません。
そうやって制約の中で自分の意志を反映させようと頑張って作っていると、自分の意思によるものなのか、外の力によるものなのか、
よく分からなかったことがきちんと分別できるのではないか、と思ったわけです。
《anoare♯5》2013年
そうしたアプローチは、シリコンを使った作品にも共通しているのですか?
そうですね。シリコンを使った作品は、まずガラスの上にインクでイメージを描き、インクの層を作り、そこにシリコンを流します。 シリコンが固まった後にガラスから剥ぐと、シリコンにはインクの盛りによって型がつき、またその型にはインクの層の一部分が剥離して張り付いてきます。 シリコンにインクの層のどの部分が張り付くかは分からないので、シリコンを使った作品においては、色彩の残り方が偶然と関わる部分になり、それ以外は私が選択した部分になると考えています。
シリコンの作品シリーズでは、モティーフはどうやって選んでいるのですか?
このシリーズにおいては、どういうモティーフを選択するのかが、常に自分の中の課題としてあります。 かつてラブレターをたまたま居酒屋で拾ったので、それを使ったこともありましたし、webで何かの画像を見つけて使ったこともありました。 いずれにせよ、出来る限り無意味なモティーフを使いたいと思っています。
《anoare♯8》2013年
なぜ無意味なモティーフを使いたいと思うのでしょうか?
そもそも私がどのような作品を作りたいかと言えば、一見すると普通なのだけれど、同時に違和感を覚えるようなものを作りたいと思っています。
モティーフが特別な意味を持っていると、「一見すると普通」というところから離れてしまいます。
だから、無意味なモティーフを使っています。
私の中でのこうした気持ちは、先にあげた作品《赤はのいちご、あなたである》のときも感じていました。
あの作品の平面作品の支持体が薄い茶色をしているのは、麻布にボンドを塗っているからです。
なぜボンドを塗ったのか、と言えば、紙にふつうに絵を描くことに対して抵抗があったからです。
紙に絵を描くと、人は絵ばかりに注目して、その絵から物語を読み取ろうとしますよね。
でも私があの作品で見せたかったのは、物語ではありません。
あの作品では、私の手書きの線をシルクスクリーンによって転写していますが、そうすると線が、手書きなのだけど機械で書いたようにも見える奇妙な違和感を持つようになります。
その点を強調するために支持体にボンドを塗って、物語的な読み取りに対するバリアーを作ろうと思ったのです。
今後、どのような作品を作ろうと思っていらっしゃいますか?
これからはシリコンの作品シリーズの新作を制作し、それを京都工芸繊維大学美術工芸資料館での展覧会に出品しようと考えています。
以前のシリコンの作品シリーズでは、拾ってきた手紙であったり、webで見つけた画像をモティーフにしてきたのですが、今回は、私自身が撮影した風景の写真であったり、
街の片隅を撮影した写真であったりを使う予定です。
そして今回はそこに、もととなった写真を並列して展示しようと考えています。
これまでシリコン作品に対して課題と思っていたのは、シリコンの物質感が必要以上に強調されてしまうことでした。
私としては、物質感ではなくて、イメージを見せたいのです。写真を並列することで、そこにあるイメージの変換のされ方を強調できないかと考えています。
1985年
長野県生まれ
2013年
京都市立芸術大学大学院美術研究科版画修了
2010年
2007年
2008年
2009年
2011年
2013年
2012年
2013年