京都工芸繊維大学美術工芸資料館

京都工芸繊維大学

京都・大学ミュージアム連携

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Kyoto Institute of Technology

「大学美術館を活用した美術工芸分野新人アーティスト育成プロジェクト」

田中幹/TANAKA Motoki

◎インタビュー

【2014年】

「未来の途中」展の出品作品について説明いただけますか?

ボクの場合、ひとつのシリーズをひたすら継続しているだけなので、ここで改めて説明を付け加える必要はないかと思われます。それでも興味を持たれた方は、以前のインタビュー、もしくは展覧会カタログ等々を参照されるのが良いでしょう。あるいは直接会ってお話する方が良いかもしれません。

「未来の途中」展展示風景(撮影:林口哲也)

「未来の途中」展出品作品 《sw-248(The Hiatus)》(撮影:林口哲也)

「あれからの、未来の途中」展にはどのような作品を出品されますか?

こちらも全く同様に、ボクの場合、「ふだんの延長」とお答えするより他ありません。ただARTZONEにおいては、「ふだん」と少しばかり違ったタイプの作品を展示しようかと考えています。とはいえ、基本的なコンセプト、即ち興味の対象に変化はありません。ボクは相も変わらず、ひっそりと存在しているけれども重要なメッセージを潜めているもの、そうしたある種の「矛盾」を秘めた対象に、今もなお強く惹かれ続けています。

【2013年】

《sw-247(No Scrubs)》 2013年 部分

田中さんの作品の特徴として、スタンプ(ゴム印)によってモティーフを転写することで作られている点と、 一貫して「ゼロ」という記号をモティーフにしている点のふたつが挙げられると思います。最初に、なぜスタンプを用いるのか、教えていただけますか。

ゼロをスタンプするという方法は、学部4年生の時からはじめたものですが、思い返してみると、スタンプ自体は学部1年生の時にも使っていました。 ですので、僕は絵を勉強し始めた最初から、スタンプへの関心を持っていたと言えるでしょう。もちろん、一般的な画材を使ってもいいのですけれど、 スタンプを使って制作をすると、絵筆とは全然違う感覚を手にいれることができます。 例えば、絵の具をつけたスタンプを押したときには、ねっとりとした独特の感覚がありますし、 また、スタンプを使っていると完全に自分の思い通りには押すことが出来ませんから、必ずエラーが起こり、押すたびに毎回違った表情になります。 誰だって印鑑を押した経験があると思いますけれど、印鑑と同じように、スタンプを使っていると「これで完璧だ!」という状態になることはないです。 それゆえ、スタンプを使っている限り、作品を完璧にコントロールすることは出来ないわけで、僕は自分の思いどおりに行かないことをひたすら続けながら、作品を制作しています。

つまりスタンプを使えば、ある種のエラーを取り込むことが出来るというわけですね。

ゼロを手書きで描けば、楕円に見えてしまうこともあります。逆にスタンプを使えばそれがゼロであることがはっきりとわかるかたちで提示できる。 けれども、やはりスタンプはスタンプであって、毎回完全に同じイメージを作ることはありませんから、押すたびに微妙な差異が生じてしまいます。 そもそも僕が作品を作るときの良し悪しを何によって判断するか、その基準となるのが、制作の前に作るエスキースです。 仮にエスキースどおりに作れたら失敗で、エスキースを超えるものや逸脱するものが出来た時に成功したと感じます。 つまり僕が思う成功した作品というのは、当初頭の中にあったイメージに何かしらのエラーが加わったものなのです。

motokitanaka

《sw-247(No Scrubs)》2013年

とすれば、スタンプの使用はきわめて合理的なことのように思います。では、ゼロをモティーフとされているのは、どういう理由からでしょうか。

例えば、「1」や「2」などを辞書で引くと簡潔な定義が書かれているのですが、ゼロにはいろいろな定義が書かれています。 そういった多様な意味を持っているという点にまず興味を惹かれました。また、ゼロははじまり(起点)でもあるし、終わり(消失点)でもあると言えます。 しかしそれ自体は、実体としてあるわけではないですよね。例えば、何かが「ない」という時、それは具体的にどういうことなのか。 僕たちはゼロに対して何か分かったつもりになっているけれど、誰も実体を見たことはないし、誰もゼロそれ自体をしっかりと認識したことはないですよね。 そのあたりがゼロの不思議さであり、個人的に惹かれる部分です。

英語の「ZERO」は何も無いという意味ですけれど、日本語の「零」は何も無いということのほかに、例えば「零細」という言葉のように、「ごくわずか」というニュアンスも持っていますよね。

そうですね。日本では、かつて「零」と「雫」という文字が混同されて使われていたりもしたそうです。 「零」とは、雨粒のような微粒子のような存在も指すのでしょう。 例えば雨粒自体は目に見えないのだけれど、雨粒が肌に触れることで雨が降っているのだと知ることがありますが、そういった仕方でゼロは存在するのではないかと考えています。 つまり、ゼロはまったくの虚無というわけではなく、そこにはかすかな何かがあるのではないか、と。 先ほども言いましたが、僕たちはゼロの実体を掴んだことがないにも関わらず、それを虚無だと考え、「何もない」と想定している。 しかし本当にゼロと「虚無」や「何もない」は同じことなのか。僕の作品はそういった疑問を提示するものでもあります。 だいいち僕らはゼロや「ない」をイメージしようと試みたところで、せいぜい“ぽっかり空いた穴”とか“何かが欠如した状態”を思い浮かべる程度しかできないでしょう。 おそらくそれらは本当の意味での「ない」とは違っていて、かりそめの姿を設えてなんとなく納得したつもりでいるのではないか、と。

motokitanaka

fig.3:《elements》2010年

「あるけれど、ない」や「ないけど、ある」といった微妙な存在を扱っているということですよね。 田中さんの作品を通覧すると、どの作品も色数が抑えられているように思うのですが、それもそのテーマと関係しているのでしょうか。

ゼロをカラフルな色彩でスタンプするのは、僕の作品の中ではレアケースですね。 もし仮にひとつひとつのゼロを違う色を使ったら、ひとつひとつのゼロに意味や性格が出てきてしまうと思います。 スタンプを使っている以上、毎回同じイメージを作ることは出来ませんから、どのゼロも個性があるといえばあるのですが、しかし必要以上に出てくることは望んでいません。 作品においては、どちらかと言えば、ゼロが折り重なって沈んでいくような印象が欲しいと思っています。

制作についての目下の課題は何でしょうか。

かつて油絵具を使って、スタンプしていました。 その時は、油絵具ですから作品にはぼこぼことしたマティエールがありました。 しかしそうやって作品を制作していくうちに、自分が“マティエールを作るためにゼロを押している”のか、 それとも“集散を見せるためにゼロを押している”のか、どちらなのかが分からなくなってきました。 ですので、最近は絵具をアクリル絵具に変えて、できるだけマティエールを作らないようにし、ゼロの粗密、集散をいかに美しく見せるかということを、目下の課題として制作をしています。

motokitanaka

fig.4:《sunya》2013年

田中さんは作品制作以外でも、多様な活動をされていますよね。なかでも、KYOTO OPEN STUDIOには、ここ数年参加されていますね。

オープンスタジオには、2011年から今年まで、3年間参加しています。僕にとってこの経験は、結構大きな意味を持っているような気がします。 「京都はものづくりの街」とよく言われますが、具体的に誰がどこでどういうことをやっているのか、少なくとも僕は知りませんでした。 KYOTO OPEN STUDIOでは、京都にある全てスタジオを網羅するほどではなかったにせよ、どこでどういう人が制作を行なっているのか、身をもって確認することが出来ました。 またAntenna Mediaをはじめ、他大学の卒業生とたくさん知り合えたことも貴重な経験だったように思います。 2010年ごろはアートを辞めようかと真剣に悩んでいた時期なので、彼らとの出逢いは本当に大きい。 その会期中に、地域に住んでいる人たちに来てもらえたのも良かったです。 例えばアートに関心を持っていない人に自分の展覧会のDMを見せて説明しても、なかなかうまく伝えることは出来ないですけれど、オープンスタジオをやっているのであれば、「(近くだから)見に来て」と言える。 僕のスタジオは、自分が生まれ育った町にあるので、小学校・中学校時代の友人が子どもたちと一緒に来てくれたりしました。 おそらく彼らは、「アーティストのスタジオに遊びに行く」と「田中君の家に遊びに行く」の両方の感覚で遊びに来てくれたのだと思います。

motokitanaka

「KYOTO OPEN STUDIO 2012」の様子

生活空間と制作場所が近いから、そのようなことが可能となるのでしょうね。

そうですね。僕は自分がやっていることを、最終的に自分の地元にフィードバックしたいと考えています。 もちろん、地元には美術に対してこれまで関心をまったく持ってこなかった人もいらっしゃいます。 そういう人に対して、美術に接するきっかけだけでも提供することが出来るのではないかと考えています。 個人的には、世界のアートシーンで有名になるとか、日本のアートシーンの中で売れていくということよりも、京都のアートシーンで役に立っているというほうが、リアリティが持てます。 言い換えれば、現代を生きる僕自身にとってもっとも切実な問題、もっとも必要な情報が凝縮されているのはここ日本、ひいてはここ京都のアートシーンなのではないか、と。 ニューヨークに行かせていただいた時も、結局のところコンビニでジュースを買って、紀伊國屋で本を買って、有名アジア人アーティストの新作展を見ていたから、改めて海外に出る必要性はそれほど感じませんでした。 単に地元が好き、というわけでもなくて、マンハッタンよりも京都や日本の方が、ある面で深い問題を孕んでいるように見えたのかもしれません。 だからこそ、遠くにあるものではなくて、自分の近くにあるけれど、実体・実態の分かっていなかったものをきちんと把握して、それと関わっていきたいと考えています。

【2013年10月9日、京都造形芸術大学にて収録】

◎プロフィール

経歴

1985年

京都市生まれ

2009年

京都造形芸術大学大学院修士課程芸術表現専攻(洋画)修了

現在

京都造形芸術大学大学院博士課程芸術研究科芸術専攻在籍中

個展

2007年

  • 「瞬間の連続、集積」海岸通ギャラリーCASO(大阪)

2008年

  • Oto Gallery(大阪)

2009年

  • Oto Gallery(大阪)

2010年

  • Oto Gallery(大阪)
主なグループ展

2007年

  • 「新鋭作家選抜シリーズ展」HONMACHI ART GALLERY(大阪)
  • 「P&E」ARTCourt Gallery(大阪)

2008年

  • 「第17回奨学生美術展」佐藤美術館(東京)

2009年

  • 「VOCA展」上野の森美術館(東京)

2010年

  • 「Painting in Question」gallery16(京都)

2011年

  • 「ORA vol.3-いま、描く-」コートギャラリー国立(東京)
  • 「ROTATION」SoM(京都)
  • 「AMA-Art Meets Amagasaki-」旧尼崎警察署跡(兵庫)

2012年

  • 「ORA vol.4」コートギャラリー国立(東京)

2013年

  • 「豊島MEETING2013-ART in 片山邸」豊島片山邸(香川)
  • 「京都造形芸術大学大学院油画展」海岸通ギャラリーCASO(大阪)
イベント

2011年

  • 「KYOTO OPEN STUDIO2013」SoM(京都)

2012年

  • 「KYOTO OPEN STUDIO2013」SoM(京都)

2013年

  • 「KYOTO OPEN STUDIO2013」SoM(京都)
その他受賞など

2005年

  • 「第4回福知山市佐藤太清賞公募美術展」特選

2006年

  • 「シェル美術賞」審査員奨励賞

2007年

  • 「京都造形芸術大学卒業制作展」奨励賞

2008年

  • 「京都造形芸術大学La Primavera賞」New York短期研修