京都工芸繊維大学美術工芸資料館

京都工芸繊維大学

京都・大学ミュージアム連携

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Kyoto Institute of Technology

「大学美術館を活用した美術工芸分野新人アーティスト育成プロジェクト」

寺岡 海/TERAOKA Kai

◎インタビュー

【2014年】

「未来の途中」展のご自身の出品作品について、説明いただけますか?

私の制作のきっかけは美術とは関係なく、日常生活の中でその時に問題意識として浮かび上がってきたことをテーマに制作を行っています。その方法でないとリアリティのある問題として私が作品を扱えないからです。自分のリアリティをもとに、問題を解釈したり、考え方を広げることで私は作品を制作しています。
「未来の途中」展の時は「恋に落ちることは可能か」というテーマで作品を制作していました。最近恋に落ちないな、というどこにでもあるような問題をその時は抱えていました。恋に落ちること、それは必ずしも自分の力でどうにかなる出来事ではないような気がします。恋に落ちるということは望むと望まざるとに関わらず、言うなればアクシデントのように降り掛かるものではないか。つまり、その様な出来事を望んだときに一体何が可能なのかを考えていました。
そのような恋に関する考え方から「自分のコントロールすることができない出来事」を制作に持ち込むことにしました。そして作品にするにあたり、「忘れ物」「夢」「寝顔」をモチーフとして取り上げ、それぞれ「忘れ物を忘れた場所に置く」「他人の枕で夢をみる」「出展者の寝ている顔を撮影する」という行為を行う作品になりました。

雲を反対側から同時に撮影する

奥:《忘れ物を忘れた場所に置く》、手前:《人の枕の夢を見る》

まず「忘れ物を忘れた場所に置く」は、遺失物預かりセンターから忘れ物や落とし物を預かり、それが届けられた時刻と同時刻にその場所にもう一度その忘れ物を置いて写真を撮るという作品です。忘れ物は本人の過失なので、自ら作り出すことはできません。いつも自分の視野の外で起こります。そのような本人の決して見ることのできない、その人の世界の外側を作品にしようと試みました。
「人の枕の夢をみる」は、知人に枕を借りて、その枕で私が眠って見た夢の記述を展示しました。夢も自分では現実世界のようにはコントロールできません。私はこの行為によって夢をコントロールしたかった訳ではなく、コントロールできない、現実とは違う世界に対しての何らかの関係性を見いだしたかったのです。

出展者の寝ている姿を撮影する

《出展者の寝ている姿を撮影する》

「出展者の寝ている姿を撮影する」は、この展覧会に出品しているアーティストの寝顔を撮影したという作品です。アーティストが自分の技術や考えをコントロールして作られるものが作品であるならば、全くそうではないもの、つまり美術や作品と本来呼ばれないものを会場に持ち込みたいと考えました。つまりアーティストがコントロールできないものであり、プライベートなもの、それが寝顔となり展示することになりました。
以上が前回の展覧会で制作した作品の概要です。「恋に落ちることは可能か」という私の問題から「自分のコントロールすることができない出来事」に対して何が可能であるのかを考え制作を行いました。しかし、果たして何が可能であったのかはわかりません。そもそも何かを可能・不可能にする為に行った訳ではありませんが。

今度の「あれからの、未来の途中」展にはどのような作品を出品される予定ですか?

前回の展覧会のあと、電車の中で友人から偶然夢についての面白い話を聞きました。その話というのが今回の制作のきっかけです。
友人曰く、夢の中で犬を撫でていたのですが目が覚めると自分の被っていた毛布を撫でていたそうです。この話は一見すると笑い話なのですが、この話の中に面白い事実を発見することができます。それは当たり前のようですが、この話の中では現実の世界での毛布と夢の中の犬がその二つの世界をつなぐものとして存在していることです。この考え方から、夢の犬を触れる為の方法を実践したり、この考え方を用いたときに夢と現実の間に起こりうる問題を作品の中で取り扱っていく予定です。
前回の展覧会では、僕は夢をコントロールすることのできないものの例えとして扱っていました。しかしこの話をふまえると、現実世界での毛布を通じて夢の中の犬触ること、つまり夢をコントロール下におくことがある意味では可能になるような気がしたのです。
誤解されないように言っておきたいのが、私は決して夢の中の犬を触れると思ってはいませんし、触りたいと思っているわけではありません。私はこの犬と毛布の話を通じて、分かち合えない価値観を持つ二つの世界の出来事について少し考えてみたいのです。ここで話している夢と現実もおそらく何かの例え話です。その二つは大切な人と自分との関係でも構わないかもしれません。いや、逆にその方がわかりやすいかもしれません。そうなると、一概にわかり合えなくてもよいという考えに陥らなくても済むからです。わかり合いたいのに決して完全にはわかり合うことができないことに対してどんなことが可能なのでしょうか。
二つの世界(夢と現実、あなたと私)、を相反する出来事として捉えて考えるのではなく、等価なものとして考えてみる。夢は夢側からみれば現実だし、あなたはあなたからみれば私だし、というような感じで。そうすれば自分の価値観とは異なる世界を排除するのではなく、理解できないままどうすれば理解することができるのかと努める努力が必要なってくるのではないでしょうか。
と、しばらく前にここまで書いたのですが、最近は考えが変わってきたので、いま書いたことは忘れてほしいです。とりあえず今回も、「恋に落ちることは可能か」を前回同様にテーマにしているということだけお伝えしておきたいと思います。

【2013年】

雲を反対側から同時に撮影する

《雲を反対側から同時に撮影する/2011年9月13日(火)12時15分》2011年

「未来の途中」展への出品作品はどういう作品ですか?

僕はこれまで《雲を反対側から同時に撮影する/2011年9月13日(火)12時15分》という作品や、《星をつくる》という作品を作ってきましたが、今回は恋をテーマにしています。 具体的には、「恋に落ちることは可能か」ということを出発点にして、作品を制作しています。 自分自身のことを振り返ってみると、最近恋に落ちなくなっているように思います。どうにも好きな人が出来ない。 それはどうしてなのか、どうすれば恋に落ちることが出来るのか。今回の作品はそうした個人的な疑問から始まっています。
僕は作品を制作するにあたり、自分自身のリアリティをもっとも大切にしてきました。 「これまでの自分の作品がこうだから、次はああしよう」という風に自分自身の中で展開を作ろうとするのでも、あるいは美術史的に新しい作品を作ろうとするのでもありません。 あくまで自分のリアリティが大切なのです。

「恋」をどう扱うのですか?

恋って、人それぞれだと思うんですよ。たとえば僕が好きな女の子のタイプと、僕の友人が好きな女の子のタイプは違っていますよね。 そういえば、僕の知り合いには自転車に乗っている女の子が好きだという人もいました。 また、好きな子をどうやってデートに誘うのか、その方法もひとりひとり違いますよね。 とはいえ一方で、この世の多くの人たちが恋をしていますよね。つまり一人一人がバラバラで、個性が出るものであり、同時に、多くの人に共感してもらえる、と。恋はそういうテーマだと思います。
もっとも、僕は今回の作品で、僕の恋の仕方を暴露しようというのではありません。 僕は、「恋」をあくまでたとえとしてもちいています。そもそも僕が恋について面白いと思ったことは、自分がいくら努力したとしても、それが叶うとは限らないということです。 たとえば合コンに行くなど、出会いを求めてどこかへ出かけたとしても、僕が恋に落ちるかどうかは分からない。 落ちるかもしれないし、落ちないかもしれない。分からないんです。言い換えれば、「恋に落ちる」ことは、自分の力ではどうすることの出来ないことなんですよ。

星をつくる

《星をつくる》2012年

つまり、恋とは「自分の制御できない範疇にあるもの」だということですよね?

はい、そうです。僕は、その全く制御できないものに対して、自分が何が出来るのかを考えたいと思っています。 もちろん、自分が制御できないものに対して働きかけたところで、それは制御できないものである以上、僕はどうすることも出来ないわけですが。

「どうすることも出来ない」という事実を確かめたいのですか?

僕は明日、死ぬかもしれないし、今日ここで話したことなんて忘れているかもしれません。 ボブ・ディランは『風に吹かれて』という曲の中で、「友よ、答えは風に舞っている」と歌っていましたが、まさにそのとおりだと思います。 さらに言えば明日になれば、今日にとっての「明日」は今日になるわけですから、僕たちは一生明日のことなんか分からないわけですよ。
僕が「恋」というモチーフに仮託したいのは、そうした分からないもの、どうすることのできないもの、いわば不可能性なのです。 そうすることで、何かの答えや結果を導きだしたいわけではなくて…。うまく言葉にできないのですけれど。

星をつくる

《星をつくる》2012年

具体的に、どういう作品を展示されるのですか?

今回は3つの作品を展示します。忘れ物を扱った作品、夢についての作品、そして寝顔の作品です。 これら3つはいずれも、「自分にはどうすることも出来ない」という点で共通しています。
一般的に美術作品と言えば、美術館やギャラリーの中に展示されているものであって、そこには作家の「表現」が込められていると考えられていますよね。 作家の立場から言えば、作品を完全にコントロールしたいと思うのが一般的ですよね。 今回僕がやりたかったのは、それとはまったく別のあり方です。いかにして自分のコントロールできないものを作品の中に入れ込むのか、いかにして作品を自分のコントロールできないものとして作り上げるのか。 僕はいまそういうことに意識が向いています。

作品を展示することについては、どうお考えでしょうか?美術館やギャラリーには、一般的に作家がコントロールして作り上げた作品が展示されるわけですよね。 とすると、寺岡さんの作品もまた、寺岡さんがコントロールすることで出来上がったものとして見られてしまう可能性が高いように思います。

ええ、そうなんですよ。そもそも、僕は分からないんです。 自分の作品を展示するのが美術館やギャラリーで良いのか、あるいは自分がやっていることがそもそも美術なのか、さらに言えば美術館やギャラリーに展示しなければ、美術を体験することはできないのか。 いろんな問題が自分の中にあり、今はまだ収拾がつきませんが、これらに関しての問題意識はずっとあり続けています。
だから僕は美術の制度や作品のあり方、または美術以外のもののあり方について考えています。何が美術であるものとないものの境界を作っているのでしょうか。 その境界について、美術の側からだけ考えてもわからないと思います。今回恋をテーマにしているのも、そういった理由があったからなんですよ。

星をつくる

《星をつくる》2012年

寺岡さんの表現にとって、作品を作り、それを展示することが最良の方法ではないのかもしれませんね。

それがわからないんですよ。作品とは何なのでしょうか。作品というのが何なのか、僕には分かりません。 僕は今まで作品を作ったと思ったことはありません。言えるとすれば制作行為にまつわる全ての時間や環境が、僕の作っているものです。 美術館やギャラリーに展示されている状態ものが、僕の制作行為の中で一番優れた状態のものとは限らないと思っています。
僕の制作は、いろんな時間や環境を通り抜けて行きます。プランを考えている時だったり、制作中だったり、搬入中であったり、展示中であったり、または展示の後であったりします。 展示をした状態のみが作品と呼ばれるのではなくて、僕が制作している間に通り抜けて行くさまざまな環境や時間の中に存在するものと、 僕の制作とが関係し合って、いろんな関係が開けて続けているものが僕の作品であれば嬉しいですね。
簡単に言えば「美術は美術館でおこっているんじゃない!現場でおこっているんだ!」という感じです。 でも一体現場ってどこにあるのでしょう。僕はそれをずっと探し続けているのかもしれません。

◎プロフィール

経歴

1987年

広島県福山市生まれ

2012年

京都嵯峨芸術大学油画分野卒業

個展

2010年

「年輪と人」三軒家アパートメントギャラリー(広島)

2012年

「世界と私のあいだ」KUNST ARZT(京都)

主なグループ展

2011年

  • 「SAGA DASH!2011&SAGA DASH AWARD」MATSUO MEGUMI +VOICE GALLERY pfs/w(京都)
  • 「one room'11」京都嵯峨芸術大学クラブボックス(京都)

2012年

  • 「window jack project」新風館ショーウインドウ(京都)
  • 「Blue project」MATSUO MEGUMI +VOICE GALLERY pfs/w(京都)
  • 「京都嵯峨芸術大学制作展」京都市美術館(京都)
  • 「Painting Point」同時代ギャラリー(京都)

2013年

  • 「無限の数え方/How to count infinity」KUNST ARZT(京都)