フランスで中沢岩太と出会い京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)に赴任することになった浅井忠は、
明治33(1900)年パリ万国博覧会で注目したアール・ヌーヴォー式のモダンデザインを携えて明治35(1902)年に帰国、
また同校図案科主任となる武田五一もヨーロッパの新しいデザインを学んで明治36(1903)年に帰国しました。
彼らがもたらしたモダンデザインは、当時の京都の図案界に大きな刺激を与えました。
京都市立美術工芸学校(現京都市立芸術大学)で神坂雪佳の助手として図案指導を行っていた古谷紅麟もその一人でした。
建築学や室内装飾の他、浅井に木炭画を学んだ紅麟が指導した卒業制作には
アール・ヌーヴォー様式のヨーロッパ室内家具の図案が数多く見いだせます。
その一方で紅麟の活躍した時代には縞や絣文様の着物が明治の新しい感覚として大いに流行し、
以前には日常の労働着であった庶民の織り柄が工夫を重ねて発展しつつありました。
そうした新しい染織のあり方を決定的にしたのが、明治36(1903)年に大阪で開かれた第五回内国勧業博覧会です。
この博覧会では、「美術工芸」の他に「染織工業」部門が設置され、「工芸」と「工業」がはっきり分けられました。
以降、機械や動力の導入が積極的に行われ、「染織工業」には大量生産の道が開け、絣柄はますます注目されていきます。
当時の絣柄の流行と機械化が相まって、絣専門の図案家が必要とされてきました。
こうした社会的な需要の高まりを背景に、明治末から大正にかけていち早く機械捺染(プリント)の図案家となったのが、
古谷紅麟に指導を受けモダンデザインを学んだ布施x詮(てっせん)でした。
x詮はプリントで絣を表現する図案を考案し、その弟子である寺田哲朗(てつお)は絣の技法をさらに発展させ、
大正、昭和の時代感覚に相応しい図案を数多く手がけました。
本展覧会は、今まであまり注目されてこなかった古谷紅麟や全く無名であった布施x詮、
その弟子である寺田哲朗といった捺染図案家を取り上げて、
浅井忠や武田五一がもたらしたモダンデザインが明治、大正、昭和という時代を通してどのように変容していったのか、
その一端を尋ねてみようとするものです。